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自分のために書いてます。

この間のたまむすびのおもしろい大人のカルロス矢吹の話がめちゃめちゃいい話だった!

自分は仕事しながらよくTBSラジオのたまむすびを聴いているのですが、

先週木曜日のおもしろい大人のカルロス矢吹さんの話がとにかくいい話でした!

 

 

僕は野球が好きで、よくバッティングセンターに行くのですが、

バッティングセンターを一つ建てるのに、だいたいいくらくらいお金がかかるかご存知でしょうか。

 

大体バッティングセンター1つで、約1億円かかるそうです。

意外にかかりますね!

 

宮城県気仙沼市気仙沼フェニックスバッティングセンター

というバッティングセンターがあります。

このバッティングセンターを経営されているのが、千葉清英さん。

千葉さんはもともとは東京のご出身で、高校まで野球をやっていたそうです。

公立高校にいながらも、西東京大会ではベスト4まで勝ち進みます。

 

その後就職をし、奥様と結婚。

この奥様の実家が気仙沼だそうで、婿養子に入って、奥様の実家の家業(牛乳配送業)を継ぐということで、気仙沼に引っ越しをされます。

3人のお子さんにも恵まれて、中でも長男の瑛太くんは、小学校に入ると、地元の野球チームで野球を始めます。

 

そんな折、起こったのが2011年3月11日の東日本大震災

千葉さんと長男の瑛太くん以外の、奥様、下のお子さん2人、奥様のご両親、奥様の妹さん、奥さんの妹さんのお子さんの、合計7人を津波で亡くされます。

 

地震が起こってから、津波がくるまでに30分ほどタイムラグがあったそうなのですが、

地震が起こった時、瑛太くんは学校にいて、千葉さんとご家族7人は、

牛乳配送所の事務所にいたそうです。

地震が起こり、これは大変なことだと、千葉さんは自分以外の家族を家に帰します。

 

その30分後、津波がやってきます。

「黒い壁がそそり立っていた」そうで、

これはいけないと、千葉さんは慌てて事務所の屋根に逃げます。

そのすぐ後に、津波が周りのものを飲み込んでいったそうです。

これからどうなってしまうのだろうと思いながら、水が引くのを待っていました。

 

長男の瑛太くんは小学校で無事に避難することができ、

遠い親戚に保護されていました。

水が引いた後、千葉さんは瑛太くんを引き取り、残りの家族を瑛太くんと二人で

探し始めます。

 

いろいろな小学校、中学校、遺体安置所などを周り、

ある遺体安置所で、車ごと流されてしまっていた家族を見つけます。

家族が亡くなっことはすぐには瑛太くんには伝えられたかったそうです。

 

遺体安置所の人から、

「火葬する場所がないから、土葬にしてくれないか」

と頼まれたのですが、

「亡くなった7人を綺麗な形で火葬するのが自分の務め」だと思い、

仙台や盛岡から、遺体を保管するためのドライアイスをかき集めます。

ちなみに、遺体1体を1日保管するのに、15kgのドライアイスが必要だそうです。

これを2週間続け、なんとか綺麗な形で7人の火葬をします。

火葬をする段になって、ようやく瑛太くんに家族が亡くなったことを伝えたそうです。

 

千葉さんは家族を探しながら、自分の会社の従業員も探します。

幸いなことに、従業員はみんな無事でした。

なんと千葉さんは3月11日に地震が起こった後、

3月25日に、従業員全員にお給料を渡したそうです。

ATMも流されて、お金を準備するのは大変なのに、

銀行に顔が利いたそうで、従業員1人1人に手渡しで給料を渡しました。

 

また、従業員もまわりながら、小学校や中学校など、

取引先も周り、必ず事業を再開させるから、

取引をやめないでくれとお願いもしていたそうです。

 

千葉さんが東京に帰らなかったのは、従業員がいたからで、

もし仕事もなくなっていたら、絶対東京に帰っていたと話しています。

 

5月になり、事業も再開させ、その傍ら、復興の講演活動もするようになります。

その講演活動に、瑛太くんもついていくようになりました。

 

ある講演の帰りに、岩手県の前沢バッティングセンターを見つけ、

久しぶりだし、バッティングセンターに行くかと、

そのバッティングセンターに寄りました。

 

そこで瑛太くんは約1時間、一心不乱に、汗だくになりながら、

バットを振り続けたそうです。

 

その瑛太くんの姿を見て、千葉さんはグッと来たそうです。

 

前沢バッティングセンターから気仙沼の自宅まで、

片道1時間半かかるのですが、その帰りの90分間、

車の中でずーっと野球の話をしていました。

その間はじめて、地震のこと、亡くなった家族のことを忘れられたそうです。

 

それから毎月1回、この往復3時間かけて、

前沢バッティングセンターに通うようになります。

この前沢バッティングセンターが自宅からいちばん近くだったそうです。

 

そんなある日、千葉さんは瑛太くんから言われます。

「僕はこうして、お父さんにバッティングセンターにつれてきてもらうから、

野球ができる。でも、僕の友達はそうもいかない。だからお父さん、気仙沼にバッティングセンターを作って。」

千葉さんはそれを聴いて、軽い気持ちで作ると言ったそうです。

作ると言っても、本格的なものではなく、裏庭にピッチングマシーンを置いて、

周りをネットで囲って、近所の子が代わりばんこに打つというのをイメージしていたそうです。

 

しかし、会社も営業を再開したばかりで、作るつもりはあったのですが、

バッティングセンターには手をつけられずに2,3ヶ月が過ぎます。

 

そんなときにまた千葉さんは瑛太くんに言われれます。

「お父さん、本当にバッティングセンター作る気ある?」

 

ここから、千葉さんは動き出します。

もしここでバッティングセンターを作らなかったら、

自分の息子は壊れてしまう。

家族1人失うことでさえ大変なことなのに、

息子は家族を一度に7人失った。

やっと生き残ったたった一人の父親に約束を破られてしまったら、

息子はどうにかなってしまうm.

またそれ以上に、今バッティングセンターを作らなかったら、

自分も後悔する。

だから必ずバッティングセンターを作ろう。

と思ったそうです。

 

ここから動き出すわけなんですが、

冒頭でも書いたとおり、バッティングセンター一つ作るのに、約10億円かかります。

が、そんなお金はないわけです。

そこで、千葉さんは「希望の飲むヨーグルト」というチャリティーの商品を作り、

1本500円で販売を始めます。

500円のうち、10%の50円をバッティングセンターの建設資金に当てると銘打ちます。

いろいろな販売会で販売をするのですが、やはりなかなか1億円には届きません。

そこで、販売会の傍ら、いろいろなバッティングセンターを回って、バッティングセンターの研究をします。

それでもなかなか大変なので、ネットなどを安く変えるところを周り、

遠いところでは埼玉まで軽トラで行ったそうです。

コストを下げて下げて、なんとか銀行から融資を受けられるようになり、

バッティングセンターの建設が始まります。

 

瑛太くんとは、瑛太くんが小学校を卒業するまでにバッティングセンターを作ると約束していたのですが、それには間に合わず、それでも瑛太くんが中学校に入る直前の2014年3月30日に、フェニックスバッティングセンターを開業させます。

 

オープニングセレモニーにには、気仙沼市長をはじめ、約200人が集まったそうです。

千葉さんの挨拶の後、瑛太くんが作文を読みました。

その作文の読み上げの後、始球式というのでしょうか、第一打席目には瑛太くんが立ちました。

このフェニックスバッティングセンターには、7台のピッチングマシンがあるのですが、この7という数字は、亡くなった家族と同じ数。

これは瑛太くんの希望で、僕は、みんなが投げるボールをホームランにしたい。

そういう意味で、7台のピッチングマシンが設置されています。

 

 

 

 

という話をカルロス矢吹さんがお話されていて、

とても感動したので、ブログに書きました。

 

僕は仙台出身なのですが、今度帰省する時は気仙沼まで足を伸ばして、

このバッティングセンターに行ってみようと思います。